2007日本基礎教育学会紀要12号より
日本基礎教育学会創立当時(平成5年)を振り返る
日本基礎教育学会 事務局
 日本基礎教育学会設立総会は「21世紀の教育を創造する日本基礎教育学会」と銘打ち、平成5年11月20日、千代田区立富士見小学校の講堂を会場にして開催された。記念講演は、『21世紀に生きる子どもの基礎教育の在り方を求めて』を演題に、当時は都立教育研究所長であった奥田眞丈氏(現本学会会長)を講師に行われた。それから14年が経過した今日、設立当時を回顧することが次の展望を生む一つのきっかけになるものと考え、本学会「会誌」第1号に掲載された講演趣旨を再掲する。
記念講演 「21世紀に生きる子どもの基礎教育の在り方を求めて」
講師 日本基礎教育学会 会長 (当時:東京都立教育研究所長)奥田眞丈先生
 新しい学会の誕生の日であり、学会の創立の日の記念講演であるので、学会の研究の糸口をつくっていきたい。
1.「基礎教育」の概念規定
 まず初めに、「基礎教育」の概念規定をしていきたい。用語の概念を明確にする必要がある。 ひとつには、学校教育における3Rsが基礎教育の概念である。新しい社会に合う3Rsにしないといけないが、これは、言語と数に関する教育である。基礎になる学力の形成をめざす教育である。「基礎教育」の「基礎」とは、後の教育の先に先行する教育であるという概念である。
 ふたつめは、普通教育あるいは一般教育というものが基礎教育であるという概念も今日認められている。特に、職業教育とか専門教育に対しては、普通教育、一般教育を基礎と考える人もある。
 次は、義務教育の段階が基礎教育であるという概念である。これは極めて分かりやすい。小学校の基礎は幼稚園がつくっている。小学校に対しては幼稚園が基礎教育である。中学校に対しては小学校が基礎教育である。いずれも認めざるを得ない概念である。
 戦前の学校令によると、国民教育の基礎という言葉が出ている。「道徳教育及び国民教育の基礎並びに生活に必要な知識・技能を授けること」とある。国民学校においては初等普通教育という概念を新たに登場させている。そして、「中等学校に対する基礎は初等普通教育である。国民の基礎教育では国民の基礎的錬成の教育が必要である」と勅令ではっきりと示されている。この「錬成」という言葉が国民学校令に入ってきたことについてはいろいろ見解があるが、研究する場合に、基礎教育に「錬成」という概念でもってタッチしなければならないものがあるということを、この歴史的経緯からみることが大切な問題である。戦後の学校教育法には、法令の中にも「基礎」という言葉が段階的に出てきている。
小学校の目的 心身の発達に応じて初等普通教育を施すことを目的とする中学校の目的 小学校における教育の基礎の上に心身の発達に応じて中等普通教育を施すことを目的とする高校学校の目的 中学校における教育の基礎の上に心身の発達に応じて高等普通教育を施すことを目的とする
 以上が、今日までの制度上にみられる「基礎」の概念である。具体的にどう受け止めるかとか、どこに問題があるかということは、これから究明されなければならないことである。
2.生涯学習の視点からみた基礎教育
 現在の時点にたって、もうひとつ基礎教育の概念規定をはっきりしておかねばならないことがある。
 それは臨教審や中教審の答申にある新しい教育理念としての「生涯学習」である。つまり、学校教育は生涯学習の基礎作りをするところであるという位置付けのもとに概念を明確化しておかなければならない。
 本学会では、基礎教育の概念に生涯学習の基礎作りを忘れてはならない。したがって、今日では非常に拡大した概念で基礎教育を考えなければならないことになる。
 これは、諸外国においても、今日の教育体制からみて是認されているところである。比較教育学では、教育改革の共通事項として「基礎教育」を挙げており、これを重視しているようにみられる。現在並びに将来にふさわしい基礎教育を学校教育は受け持っているのだということが諸外国では言われている。したがって、将来の社会にふさわしい基礎教育の在り方をここに確認して、この大きな研究課題に取り組まなければならない。
 「基礎教育」とは何ぞや。教育学の研究であるから目標、内容、方法等のアプローチの仕方があるが、その大きな位置付けは生涯学習の中にあっての考え方であるということである。
 社会の動きと教育の動きは緊密な連携があるということ、将来社会にふさわしい基礎教育を、従来の伝統を守るばかりでなく、ぜひ、発想を新たにし、あるいは新しい創意工夫を加えて新しく創り出さなければならない。このことが国際化時代の諸外国の教育にもそれぞれ影響し合っていくと考える。
 この意味で基礎教育の研究は大事な時期に来ていると思う。また、この時期に本会ができたことは大きな意味があると考える。その研究に精力的に取り組む意義はここにある。
3.実践的にアプローチする基礎教育
 基礎教育の在り方は、教育に実践的にアプローチしなければならない。
 用語としても、基礎教科、基礎学力等もあるが、これは今のままでいいのかどうか吟味しなければならない。そして、基礎学力にも新しいものをクリエイトしなければならない。
 アメリカ、イギリスの教育でも共通に基礎教育を問題にしている。アメリカでは、1983年に、報告書を出している。
 Nation at Risk(危急に立つ国家)アメリカの国家は危機に遭遇している。この危機を救うためには教育改革は至上命令であると言い、報告書では基礎教科を必修として重視すべきであると提言している。基礎教科とは英語、数学、理科、社会、コンピュータサイエンスの5科目であって、それを必修として課するようにしようと提言した。
 「2000年の教育」はブッシュ前大統領が50州の知事のサミットで決めたものをレポートにしてまとめたものであるが、その教育戦略の中に、特に基礎になる教科を重視し、数学と理科を軸にし、英語、数学、理科、地理、歴史の5科目を、第4・8・12学年で一斉テストをして学力の評価をし学力を向上させようとした。アメリカが如何に子どもたちの学力を向上させることに大きなねらいをもっているかがわかる。と同時に、最近クリントン大統領が、Nation at Risk、10年前のものであるが今やNation of Students(学ぶ者の国家)をモットーにしてアメリカ全土の学力を向上させようではないかと言っている。これは、日本がまさに直面している生涯学習と同じようなことではないか。
 イギリスでは、1988年7月法律でNation curriculumを決めている。英、数、理、地理、歴史、技術、音、美術、体育の9教科を必修としている。中学校では、これに現代外国語を加えてこれを必修としている。これらを国民共通の教科とし必修としている。これは英国の教育史上初めてのことである。また実施の状況をテストによって確かめている。7歳、11歳、14歳、16歳テスト(義務教育11年)の実施を法律で決めている。基礎学力をしっかり確認しようとしているのである。
 ここで考えておかなければならないことは、如何に米、英が基礎を大事にしているかということである。
 ところが、日本の教育改革による学校教育の方針は、一口で言えば、「多様化」である。柔軟性をもたせ、弾力性をもたせて多様化する。その最たるものは高等学校の教育である。それでは米、英が言う基礎教育は日本ではどうなのか、十分に考えなければならない。
 21世紀の日本の基礎教育をどうするのかというまさに、この意味で日本では基礎教育学会が必要である。今まで学会が細分化されてしまっていろんな細かいことを学会はやって来たが、もっと大きな視点にたって考える学会があってよい。
4.基礎教育の内容・方法
 そこで、基礎教育の内容・方法をどうするのか。幸いにして日本では幼、小、中、高校、心身障害教育では、教育課程の基準が定められている。(幼稚園教育要領、各校種別の学習指導要領、学校教育法施行規則に教科の種類、配当時間等が示されている)
 教育法規の体系で全国的に教育の平等性、あるいは教育の機会均等が保たれている。であるから基礎・基本を重視しなければならないというようなことは、比較的全国的に浸透するわけである。もちろん、学習指導要領や幼稚園教育要領を実際に実践し、ー人一人の子どもに身につけさせるところまでもっていくのは第一線の教師達である。教師の実践の中に基礎教育の重要性が読み取られなければならない。いずれにしても日本では基礎教育は比較的に以前から重視されてきたのである。
 ところで、この基礎学力については終戦直後、占領軍が入ってきて日本の教育の学力を1年下げるようにしたが、独立後、これを1年上げて元の学力に回復した。それが昭和33年の学習指導要領の改訂であった。そして基礎学力を確保することとなった。昭和43年にも同様に基礎学力を重視してきたわけであるが、その後時代の変遷により学習指導要領のねらいにもいろいろ謳われるようになった。
 しかし、改まって「基礎」はどうなったのであろうか。昭和53年の学習指導要領では、その基礎の問題について緻密に、意図的に基礎教育をしなければならないことを表し、ことばの上では、基礎・基本として、基本的内容・基礎的内容とし、基礎的事項・基本的事項という用語でもって54年の指導要領では見ることができる。これは52年、「国民として共通の基礎的・基本的な内容を重視すると共に、児童・生徒の個性や能力に応じた教育が行われるようにすること」と、教育課程審が要請していることに基づく。それを受けて54年の学習指導要領では「基礎的事項・基本的事項」ということを指導要領の上で掲げた。その時に基礎と基本はどう違うのだという議論になった。
 基礎ということだけではなかなか了解がつかない面があるし、また、だいじな学力があるので基本という言葉を入れておきたいとし、全教科にわたってあるいは全教育課程にわたって「基礎的事項・基本的事項」ということになった。その当時は基礎・基本という考え方が教科によってみな異なっていた。ある教科では基礎があって基本がある、また、ある教科では、基本があって基礎があるんだと言う考え方があり基礎と基本を平等に扱って『基礎・基本』としたのである。
 ところが、中教審は、時代の流れの変遷が激しいので、教育内容について考え直そうということになり、58年に中教審が審議の経過を発表した。答申にはならなかったが、52年の指導要領でいった「基礎・基本」は離すわけにはいかない。基礎・基本の徹底といって非常に強調している。中教審が文部大臣の諮問機関であるのに対して、臨教審は内閣総理大臣の諮問機関である。したがって、臨教審は上位の審議会であるが、そこでもやはり、基礎・基本という言葉はそのまま受け継がれてきた。これは非常に意味があることである。ここでいう基礎教育は、基礎的事項・基本的事項の教育であるということになる。
 臨教審の文言の中には、「個性重視の原則」を教育改革の第一目標だとしている。この説明の中に「豊かで多様な個性は基礎・基本の土台の上に初めて築きあげられるものである」と答申の文言で示し、だから土台をしっかりしてほしいと。
 平成元年(62年教育課程審)学習指導要領では当然「国民として必要とされる基礎的・基本的内容を重視して個性を重視した教育の充実を図る」とした。基礎的・基本的な内容を重視したやり方において個性を生かす配慮をすることとなった。よく基礎・基本は共通事項で、個性重視は多様化で矛盾対立するのではないかというが、そうではない。この基礎的・基本的内容を重視して個性を重視した教育の充実を図ることが新しい学習指導要領が目指す学力観としてクローズアップさせたのが平成2〜3年のことである。
 児童・生徒の指導要録の様式等の改正をしたときに、新しい学習指導要領の目指す学力をほんとうに生かして学習指導に展開できるように『学習の記録』の取り方を改めようとしたものである。この学力観は突如としてできたものではない。長い間の基礎・基本を大事にしてきた表れである。基礎教育学会としても、新しい学力観にたって基礎教育を新しく考え直そうとするものではなければならない。「評価」の考え方も新しい学力観に立つ学習指導要領と併せて、それとうらはらに、新しい「評価観」について考えなければならない。
5.基礎教育の充実こそが基礎教育学会の使命
 21世紀に向けた基礎教育というものを考え直したい。
 基礎教育の伝統は古い。この伝統の上に世紀の変わり目を契機として新しい装いの基礎教育を充実したい。これが基礎教育学会の当面の大きな使命であると思う。
 では、どういう方向で考えるか。このことについては、今日の時代は新しい発想の転換をして創造することが強く求められている。
 しかもそのCreateは各教師の教育の実践的な意味のCreateである、教育は実践あるのみ。課題を実践的に研究する。これから残された課題として基礎教育を各校種別毎に明確にしていくこと。
 幼・小(低・中・高)子どもたちの発達段階に即応しながら基礎教育の内容・方法を考えなければならない。問題は、生涯学習であるということ、その一環としての学校教育だから学校教育だけで考えるのではなく、生涯学習体系構想の一つとして、家庭、社会教育と分担し、と同時に、一人ひとりの子どもについての人間形成のために、緊密な連携をする。この新しい教育のシステム、仕組み、構造を創り出さなければならない。これが直面している課題である。
6.基礎教育学会に哲学を
 教育を考えるに当たっては、哲学Philosophyは、学説ismを明確にする必要がある。
 Humanism(人文主義、人間至上主義)に基づく教育というように、哲学的‥思想的な背景をもってその教育実践を確かに持つことが大切である。今日、21世紀の教育を考えるに当たってはどんな主義思想をもって教育を考えるか明確にして取り組んでいく必要がある。
 Humanism、Democracyなどといわれているが、過去のHumanismをここで復活させるのか、あるいは新Humanism、あるいは21世紀のための Humanismという形でいくのか、整理していく必要である。
 汎愛主義(Philanthropisms)〔18世紀のドイツで、人類愛に基づいて児童を広く愛護しようとして起こした教育運動の主張。ルソーの「エミール」の自由主義観を基礎とし、児童の幸福な生活を目的とする教育思潮〕
 私は、今日ほど人間を人間として理解することが強く要望されている時には、Philananropyということを思い起こすべきではないかと思う。単なるHumanismだけを考えるのではなく、今日の人類愛を考えてPhilananropyがどんなプラスの考えになるか、基礎をはっきりさせ、理論を明確にしていく必要かある。これは、これからの教育を考える上にぜひ必要である。実践的な課題としてPhilananropyをどういう形で実践するか。人類愛に立った教育はどうなんだという時に教育の作用はどうかが問題になる。
 基礎教育(学力)の場合には、体験学習が重視される。
 今回の指導要領の改訂においては、学習指導の方法では体験が重視されているが、新しい考え方で理論の確立をしていくとなるとどういうふうな考え方があるのか(教材観)学習材、学習活動の在り方が新しい発想に基づいて研究開発されなければならない。これは大きな課題である。
 基礎教育の研究に当たっては、特にその教材研究は、全く現場の第一線に近い密接な問題であるから、この意味においてここにいる教師の皆さんに教材の研究をお願いしてその成果をあげていただきたい。教材研究、あるいは学習材の研究、学習活動の在り方の研究、特に今日言われてるメディアをどのように教育の中に活用していくか、研究開発の残された大きな課題である。
7.人間理解ということについて
 今日、教育界では「生徒理解」という言葉があるが、しかし生徒理解ではすまないことが今日起こっている。
 生徒理解は、教育と生徒との関係においての生徒理解ということは当然究明しなければならないことであるけれども、教師も人間である、子どもも人間であるという意味においての理解がそれに先立つのだという考え方をもってもらいたい。
 時に、今日問題になっている児童の権利条約(条項)、もっとさかのぼれば児童憲章(昭和26年)の精神が、本当に今日の教育に生かされているか。この意味において、今日、人間理解の在り方について、新しい研究のスタートをしてもらいたい。これも基礎教育学会の大きな課題になろうかと思っている。
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